死に至るヤマイ

以降はレビューとかではない。外に吐き出す場所がなくなり、苦悩に満ちた人間が憂いをぶちまけるだけの内容だ。建設的でも生産的でもない無産物に触れ気を悪くする可能性があることをここでは警告しておく。 

 

ではなぜそんな非生産的文書を書き綴る必要性があるのか…日記に届けておけばいいのにと思われるかもしれないが、人間年を取り自分の先がないと知ると遺書を書きたくなるでしょ、それと似たような精神だ。

 

 

パイプを吹かしながら考える。

 

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「君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯「ぼんやりした不安」である。」

 

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 芥川龍之介が自害の前に友人にあてた手紙の冒頭部分の一節である。「自殺」では大げさなところがあるが、日常においても私は一種の「ぼんやりとした不安」に苛まれている。

 

 まぁここからは自分の職業のことに関して類推適応させるのだが、仕事を放棄して退職したいという気持ちになり滅びゆくことは往々にしてあることではある。やれ、ノルマがきつい、やれ人間関係がうまくいかない、やれ事務処理が終わらない…など職を辞す動機としてしばし語られる原因ではあるが、それらはあくまで職への…いや現在の職業につく自分への絶望に至る動機の全部ではなく、動機に至る道程を表すだけである。

 

 

メンター制度に類するものが自分の会社には存在するし、自分もその制度に参加することにはなった。なるほど、職場以外の先輩に自分の考えや悩みを打ち明け心が折れそうな準新入社員を救う制度という意味ではそこそこ有意義ではあろう。 

 

が、それはすでに「ぼんやりとした不安」に苛まれ始めた人間には無力である。上層部は新人の離職率が高いことを気にしてこの制度を作ったらしいが、残念ながらそれは上層部のいわば自慰行為のような性質をはらんでいる。残念ながら知り合いにも同じくぼんやりとした不安を抱えて仕事をしている人を知っているが、私と同じように効果はあまりなさそうである。

 

自分の先輩もメンター制度の相談役に選ばれたそうで、同期の話を聞かされた。「民や順調に仕事押をしている」「売れ上げに貢献しているらしい」という言葉を聞いた。その後言われたのが、

 

「同期との差が開き始めているね」

 

要は

 

「君は無能である」

 

といわれているのである。そりゃそうだ、刻苦勉励を厭い日々を単に平穏に過ごすことだけを考えている人間と、日々進化し成長せんとして必死に自分を磨き上げている人間たちとでは、前者が負ける事など火を見るよりも明らかなのである。

 

もはや職場では必要とされていない人間だとわかっている。当たり前である。ただ苦しいとしか感じない。世の中の人間は苦痛の中に「一種の甘い蜜」のようなものを見出しそのために苦行に耐えて仕事をしているという。それをまだ味わったことがないのである。ただ目の前の仕事を苦しいと感じて行動するのみ。その仕事の良さを知るために必要な苦行さえも行う気力が起きない。

 

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話は変わるが、小林秀夫は「生と死」の中で、死というのは生と別れたものではなく、死という存在から生まれるってな感じのことを書いており、生の中でもっぱら大切なのは「期限をうかがうこと」のようなことも述べている。さらにとあるラジヲ番組では「生きていくこととは、働くこととは何か…それは人に何かを与えることであり、そのためには数多くの選択肢の中から吟味して本気で選択をしなければならない」と述べているのを聞いた、ラジオキャンパスだっけかな。

 

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人生というのは「死への目標」すなわち「どのように死にたいか」ということに帰着し、どのように死にたいかという目標に対してどう生きるかという手段が形成される。そしてよりよい人生とは「他人に何かを与えることが出来るような生き方をしたいか」ということに帰着される。

 

綺麗ごとではあるが一定の心理はある、「自分の為に仕事、給与の為に仕事をするだけ」というなればただの趣味であろう。だけど、人に何かを与えることが出来る人間は自分に何かを与えられる人間なのである。自分がどうなりたいのかに本気で目標を設定して、それにひたむきに走る人間はおのずと他者に何かを与えることが出来る人間になれる。自分に何かを与えれないというのはどういうことであろうか…。

 

そう、私は自分のことが死ぬほど嫌いである。自分を労り、ほめるという言葉は私の中にはほぼ存在しない。自分にとって大切なものもたぶんないのではないかなと錯覚するほどに。だから体を労わろうとも思わないから煙草はばかすか吸うし酒も度数の高いものを一気飲みしている。あわよくば倒れて救急搬送されて滅びらることが出来る事を願うかのように。

 

人並みの人生を送ることだけを目標にして、浪人してまでも大学に入って何も得ることなく漫然とそこそこの企業に入社して、精神を壊しかけてコンサータのお世話になるような人間を誰が好むのか。ただ平均的な人間の称号を得るために額に冷や汗を流しながら恐怖におびえながら生きて、自分が良くなるために頭を回すことなく自分で目標を設定することなく生きた、没個性の人間に誰が惚れようか。

 

手に入りやすいものほど価値は低く達成感も低い、手に入りにくいものを一生懸命に努力し涙を流して得たものこそが真に価値がある。そんな価値あるものを時間をかけて蒐集し自分のものとして身に着けていった人間に自然と他者は惹かれていくのである。彼女がいないとわめく権利すら私にはないのである。

 

本来であれば私は自然淘汰されるべき人間であった、自分の中で時が止まった7年前、あの時に消えておけばよかった、あの時自分で自分の五線譜に終止符を打つことが出来る勇気があれば。一年浪人して変に大学に入ってしまったもんであるから勘違いをした。あの時は自分はすごい人間なんだというわけのわからない有能感のようなものが支配していた。だが現実はこうだ、ざまぁない。

 

あぁ、好んで聞いていた音楽もテレビの音声も何もかも意味を持たない雑音の羅列のようにしか聞こえない。好んで見ていた二次元の画像も意味なきものにしか見えない。全てに興味がわかない、食欲睡眠欲性欲の三つの力も最近はバランスがおかしくなっていると感じる。帰宅後の過眠、発散してもどうしようにもない性欲、間違いなくおかしくなってきている。

 

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そんな人間でもわずかに気になる異性がいても罪になることはあるまい(なおSさんのことではないので注意してね)。自分のような行動にも起こさない、人間的魅力がこれっぽっちもない人間のいう戯言など、正常な世界に生きる人間には届くはずはないであろうが。自分がまともな人間になる方法はわかりかねるところもあるし、気力が起きないのであるからしょうがない。ただ、一言。

 

「生まれ変わるなら現世でのみ」

 

であろうことに僅かに心の針が動いたということは、自分はまだ自分を、この世の中をあきらめていないということなのかもしれない。それのみが最後の希望である。

 

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書きたいように書いただけの文章で何の文学性も共感性もない、結論もなければ考察もない支離滅裂な文章であろう。あたりまえだ、自己嫌悪することさえ最近は飽きが早いのである。もはや好きなこと、嫌いなことどちらにしても集中することさえも困難なくらいに疲弊している。世の中を傍観者気取りで「一切はながれていくのみ」と感じる心に、私は癒しがほしい。手に入れる努力の仕方を教えてほしい。自分で考えるほどの気力は、ここまで落ちるともはや取り戻せない水準にあるのである。だから、最後にわがままな人間たる私が一つだけお願いしたいことを、ここで叫ばせてくれ。

 

「助けてください」

 

Fin