無題

 

さて、風俗レビューを期待している人にははなはだ申し訳ない、最近書く気力が起きない。文才が出てこないのです。書いても書いても消してやりなおし、もう意味これあるのか?と自問自答して意気消沈する。

 

さぁて。どうでもいいこと書きたくなったので書きます。世間ではクリスマスムードということで、やれ光のテーゼントだのホザき宣われております。僕が一つ言いたいことは、

 

「君が持っているスマフォやカメラ類が全て壊れている状態でも行きたいですか?」

 

ということです。聖夜でやれクリスマスケーキを食べるだ、やれ彼氏とデートに行く男や、やれページェントを見に行くだの語ります。そういう場面で多く見るのは写真を撮っている人たちばかり。

 

とあるお話、ある夫婦の結婚式場で「インスタ投稿のために撮影するのはご遠慮ください」といった瞬間にみんなカメラを下したという滑稽、昔なら故事成語になってもいいくらいのことがあったそうな。

 

写真を撮影してネットにあげて、さも

 

「自分たちはこのネットの海に多く浮遊するボッチの負け組どもとはちがう人生を歩んで楽しんでいますよ」

 

と自慰マシマシの主張を通したいとではないかといわざるを得ない。そんなんならイベントなんて行く価値ない、イベントに失礼だ。え、私はどうなんだって。主張するからには守ります。家で寝てるにきまってるじゃないですか。何も持たない人間にイベントを謳歌する権利などない。

 

はぁ、自分の口から出てくる紫煙のせいで吐き気を催す。酒を飲んでも催吐感に苛まれる。思ったんですよ、いっそのこと酒飲んで車運転して電柱にでも思いっきり衝突して死ねれば少しは楽になれるんじゃないかなぁって。長期休暇、後半は死ぬことしか考えてなかった。余計なものが体内を支配している絶望と嫌悪感にむしばまれつつ、動悸に苦しめられる日々にはもうこりごりである。

 

そうはいっても結局は出来ない。自分の遺品整理を試みて掃除をすると楽しかった日々を思い出して、「あんな日々を送りたいだけなのになぁ、もしかしたらまだチャンスはあるんじゃないかな」と未練がましいったらありゃしない。

 

一つだけ言うならこういうことですね。みんなが当たり前に出来る事が出来ないってこれ歩で人生においてハンデであるというのをわかってもらえたらうれしい。こういう人間を見ることで自分は正常だと安心していただけたらこういう文章書く意味も少しはあるんじゃないかなとおもいます。

 

何かをしないと結局何も変わらない、進化の反対は無変化だという。生き残るものは「強いもの」ではない、変化に対応できるものである。変化にいまだ対応できない以上私は永遠に図体のでかい子供のままである。

 

 

今年あと4営業日、どうせ変化を望むことなくただひたすらに苦しいとわめくだけ。水中の酸素濃度が低くなって苦しいなら陸に上がればいいだけの話。それが出来ないなら一生肺胞を海水に浸して苦しんでいるのが私にはお似合いということであろう。こんなこと思うあたり自分の人生を生きる気力がないということであろう。わたしは一般的な成人男性になれればよかったがもう無理だ、私は「野原ひろし」にはなれない。

 

とかいいつつ鉛のように重い体を何とか動くように大脳新皮質に働きかけて、配布用のお菓子の詰め合わせを購入しに行く。本題が終了したのでスーパーに行き、何か食べたいものを見て回る。びっくりするくらい何も食べたいと思わない、拒食症というわけではないのだが、

 

「この食物を食べたところでどうせ幸福にはなれない」

「500YENを支払うだけの幸福感を得ることが出来ないものでしかない」

 

という意識が働いて何も食べる気が起きない。生命維持の為に必要な食べ物はまぁ食べましょうという風になるんだが、奢侈品としての食べ物を食べたいとは思わないという今までにない事態に突入した。スーパーに陳列しているものが単なる有機物にしか見えない、大衆消費社会の愚劣さを表しているかのような、そんな錯覚に襲われる。

 

自分の中にある不要なものをすべて出し切って無になりたい、部屋にあるものをすべて捨て去って、無の部屋にしたい。そこで座禅を組んで…そんな生活をしたい。睡眠欲差を支配して、無我の境地で座禅を組むことが出来れば、私は完全な、社会が私に求めているようなロボットになれるかもしれない、そう信じて止まない。

 

そう、もはや形があるものでは幸福は得られないのである。肉体の快楽ではない、精神の快楽を求めるしかないのである。じゃ何ならいいのか?それを考えるために座禅を始めよう。

 

Fin