生と死の狭間の中で人は何を得るのか

生と死の狭間の中で人は何を得るのか

 

皆さんお久しぶりで。さて前置省略で、皆さんは本気で「自身の生命の終わり」を覚悟したことがありますでしょうか。私には3回ほどあります。

 

1.高校生の時、化学熱傷による右手甲の大火傷

2.社会人2年目、仙台市中心部を自動車で交差点走行中に側面に追突される

3.【今回】登山中の滑落死未遂、遭難未遂、および川での漂流・溺死未遂

 

 今回は3についてその時の感想を思った事を忘れないために文字化しておこうという自慰たらたらの文章でございます。まず、そもそもなぜそんなに死にかけるようなことをしていたかと言うと、まぁあまり詳細は言わないようにしておきますが、【川と山に遮られたとある目的地】へ行くためです。立地としては、以下の条件を想像してみてください(勘のいい人ならこれだけの情報で目的地が分かるかもしれませんね)。

 

・舗装道路から目的地に行くには「吊り橋」を渡らなければならない

・吊り橋を渡った後、山の尾根目指して登山をしなければならない

・尾根から目的地まで下山しないといけない

・目的地到着後は元来た道を引き返すか、川渡しないと始発地には戻れない

 

さあ、始まります。

 

 2022年5月某、世間一般でいうGWという大型連休で浮かれる日々、日ごろ繰り返しと安定の名のもとに退屈を身にまとう社会人にとっては束の間の休息である。斯く言う私は、何かしたいという欲求は特段無くいつも通り自宅で酒を煽りつつ惰眠を貪ろうかと考えていた。心の奥底に変化と感動の波に埋もれてみたいという欲求の灯を隠しつつ。

 

 1日だけの勤務を終えた頃には連続休暇の半分の終了を意味していた。まだ冬が抜けきれない春と夏の境界を怠惰に生きる私は、平凡な日常に飽き飽きしていたらしく次第に心の奥に隠していた何か心を強く動かされることの欲求を隠し切れなくなってきた。

 

 深夜の丑三つ時、世間一般が休息の時間を過ごす中で愛車のキーシリンダーを回す。「あの場所」を死ぬまでに一度は見てみたい、そう思わせるような幻想的な景色が東北管内某所に存在することを大学生時代から知っていた。そこに向かうためである。相応の準備を行いつつ、その場所付近のICを目指して高速道路を走らせる。果たしてどのような景色が見られるのか、心が大きく動くことを期待に胸を膨らませながら。

 

 目的地周辺のICを下り3桁国道をひたすら進み、途中の側道に右折し木々が生い茂る町民道を進んでいくとここからスタートする目印が見えて来た。車を停め作業着とウェーダーに着替え、デジイチスマホ、一脚をリュクサックに入れていざ、自己責任の世界へ進む。この時点で小雨が急に降り始めていたが、この時点で撤退しなかったことを後々後悔することになる。最初に述べた通り目的地に行くために最初に「吊り橋」を渡らなければならないと言ったが、その吊り橋は、

 

足 場 が 無 く 骨 組 み と 支 柱 の み

 

なのである。骨組みの支柱と支柱の間は大人が大股開いた位の幅がありかなり広い。しかも通り雨があったらしくフレームが濡れている。

 

「ここをわたらなければならないのか」

 

 事前調査から知ってはいたが実際に目にすると、そして支柱と支柱の間から眼下に広がる濁流を目にして恐怖を感じない人間はいないだろう。しかも橋自体は設置されてから相応の年数が経過していることは明らかであり、支えているワイヤー類もいつ切れてもおかしくない。

 

「ウェーダーの足底はフェルト素材なのでワイヤーを掴みながら焦らなければ問題ないだろう」

 

 秘密兵器を身にまといつつも大層な度胸試しを受けさせられているような気分になりながら、崩壊寸前の吊り橋へと歩み出す。一歩、一歩進むごとに目、耳、そして全身が吊り橋の揺れとフレームの軋む感触をからひしひしと感じる。視界が終点の石だけしかこの世にないかの如く視野狭窄を起こしている。人間の生存本能が引き返せと命令している中、はらりと舞う落ち葉が目の前を掠めて濁流に飲まれて見えなくなっていった。たかが1枚の枯葉が歩む足を止める、濁流が奏でる死の協奏曲に耳を傾ける事約1分、静止した時間と体、そして理性が動き出す。

 

「落ちたら死。あの濁流に飲まれて生きては帰れまい、距離は倍になるがここで方向転換するより渡り切ってからもう一度戻った方が安全、渡り切ろう」

 

自分を鼓舞しながらゆっくり、そして確実に足を進め、あと数歩で吊り橋を渡り切る。ようやく終わると安堵の息を出そうとしたその時、対岸側のつり橋の付け根のフレームの部品の一部が、

 

真 っ 二 つ に 折 れ て い る

 

光景が目に入ったのはあまりに不幸だった。今まで冷静な判断を完全にかき消され、狼狽に染まりかけた感情を制することはあまりに酸素が足らないような感覚に陥る。どんなに慎重に吊り橋を渡っていようとも、普段人が通行しない吊り橋に人が通過したことにより重心が変化したらどうなるか予測することは、悲しいくらいに容易い。

 

「早く渡り切りたい、この恐怖から一刻も脱したいと思うのだろ。しかしこれまでの落ち着きを失ったら、足を滑らせてあんたを今支配している恐怖の主に飛び込むことになるぜ」

 

そう別の自分からささやかれたような気がして、滑稽かな、今生命の危機にあるというのに深呼吸しながら平静を呼び戻す。最後まで変わらぬペース吊り橋を渡り切った時、初めてガチガチと自分が歯軋りを鳴らしていたことに気づいたのである。振り返り来た場所を振り返るにそれほどの距離ではない、おそらく10mくらいしかないだろう。カイジの鐵骨渡よりかはマシである。

 

 一息ついて吊り橋を渡り切り次は目的地へ向かうのであるが、本来は山を登らなくても道が存在しているはずなのであるが、土砂崩れにより道の一部寸断され跡形もなくなっている。この時点で人間が来ることを阻んでいる、自然に還りつつある楽園に簡単には踏み入れさせないという自然の大いなる意思なのかと思えてきてしまう。

 

 最初は土砂崩れを起こしている法面を落石や木、大きな木の根を支点として斜め上に上りつつ進んでいった。しかしながら、山を上ること、木の根を手放さない事、即ち落ちない事に過集中したためあることに見落としていたのである。それは、下の方の大きな岩がある付近は体重をかけても十分に安定するが、上に登れば上るほど石は小振りになり体重を支えるだけの安定性がなく足を引っかけた瞬間に下に崩落していく、そして最後には石さえなくなる。それと今の時期は冬の落葉があり、その落葉が水気を多く含んでいた。つまり気づいた時には登山継続するも諦めて下山するも、

 

動 い た 瞬 間 に 法 面 を 滑 り 落 ち る

 

ことになるという状況の場所で呑気に休憩していたのである。少し足を踏み出すだけで小石がパラパラと落ちていき、細かく割れていき最後には川に落下していく。

 

「このままでは次にバラバラになって川に落ちるのは自分の頭蓋骨になることだろう」

 

 再び焦燥に駆られ始め、心理的不安という不愉快な虫が見る見るうちに心を巣食う。法面に生えている大きな木に跨り紫煙を吹かしながら考える。一般的に登山で明らかに道を外れた時は「尾根」に向けて進むことで崖や沢への転落を避けられやすく救助を期待出来る。しかしながら冷静に考えればわかることではあるが、これは「整備された登山道がある」山への登山、即ち管理が行き届いて今現状は少なくとも死にはしない平らな地面に足を付けている時である。

 

 そう思う心の中である考えが浮かぶ。自分がいるのはもはや崖に準ずる場所でありかつ管理された登山道などない、さらに尾根は確かに自分の頭上2mくらいのところにまで迫っているが、そこにたどり着くまでの足場として頼りになる岩や根はもはやない。それなら自分で行先を決めて滑落する方が意識しない滑落よりもわずかばかりであるが安全なはずだ。

 

「確かにここまで来たが、今引き返せば、まだ間に合う」

 

煙草の火を消し吸い殻をポケット灰皿に押し込んだ時覚悟が決まった。頑丈そうな木の根や安定してそうな大きい岩めがけて山の斜面を滑り台の如く滑っていく。数回に分けて少しずつ順調に最初に上り始めた位置に戻る。そして、これまた幸いなことに上り始めた場所の付近に雪が堆積しており、体を雪に向かってシュゥゥゥーッ!! !エキサイティン!!(顔面蒼白)。

 

最後に雪の塊から降りる時に足を少し滑らせた以外は何とか元の場所に帰還することが出来た。元の出発点に戻った時とりあえず一服。

 

「こいつだけが私を普通の人と同じレベルの集中力と判断力を私に与えてくれる相棒さ。」

 

と相棒と一体となり休息を取る。雨も上がるのを待って吊り橋まで戻り最初に進んだ方向とは逆の方へ足を進めていくことになる。逆の方は確かに目的地から離れてしまうが、事前調査で等高線の幅が緩めなのは一応知っていたので、時間はかかるが行けるのではないかと考えたからである。

 

 逆方向に足を進めてからは尾根に向かいジグザグに緩やかに上っていく、ある程度まで足を進めていくと、等高線の間隔が狭くなり場所に差し掛かる。やはり準崖のような場所で木の根を使いながら上るしかないみたいだ。頑丈そうな木の根を見つけ上っていくが、この時2回目の滑落の危機に苛まれることになる。太い木にしがみついて別の木に足を載せてよじ登ろうとしたその時、つるり、足を滑らせてしまう。自分の体重を支える武器は緩やかな砂の斜面に辛うじて刺さっている左足と木を持つ右腕と左腕に持っている一脚、これでどうやって戦えばいいんだ…。何度も右足を再度木にひっかけようとしてとにかく滑る、上った高さもそこそこで今回はわざと滑落するに相応しい木がない。そしてついに、

 

左 足 も 宙 に 浮 く う こ と に な っ た

 

体重を支えていた足が外れたことで右腕と腹筋に異様な負担がかかる。腹筋の筋繊維が相当数破損した感覚を直感的に感じたが、もしこれが太ももで起きてしまったら肉離れでもう動くことは出来なかったであろう。加えて特に意味なく最近日常的に腹筋だけ鍛えていたからその衝撃に耐え凌ぐことが出来たことも幸いであった。

 

「なんか同じ状況を某リポDのCMで見たな。まさか自分がこんな状況になるとはね」

 

と乾いた笑いを反芻しつつ冷静に左足をより高く上げ木の根に引っかけ、右足で元々の根を蹴り飛ばすようにしつつ、左手の一脚を木の根と根の間に突っ込み全身を左上に向けて投げ出すように崖を上りきり、そしてついに尾根に到着したのである。

 

事前情報だと尾根にたどり着いた後は目的地に向かって緩やかに下山していけばいいらしい。尾根から見える川を参考に周りを見渡すと、明らか人が通れそうな獣道が存在していた。

 

「事前調査によると地図上尾根から南向きに降りた左側に目的地への第二の目印が見えてくるはず。」

「ちょうど「南向き」にこの獣道が存在している。ここを進んでいこう」

「目的地はどこだ。 まだ見えないぞ…」

 

後から振り返るにこの時点で登山による疲労により意思決定能力や判断能力が著しく低下していたのは否めない。

 

「目的地はどこだ。 まだ見えないぞ…」

 

加えて目的地を探すことに心境の奥に薄々、

 

「早くこの山から撤退したい、もしかしたらもはや元の世界に戻れない場所まで来てしまったのではないか」

 

という焦燥の念が徐々に表れ始めていた。

 

「目的地はどこだ。 まだ見えないぞ…」

 

道をいくら進んでも目的地は見えてこない、いつしか獣道は獣道ですらなくなり、緩やかか崖に差し掛かっていた。振り返って歩いてきたはずの道を探してみてももはやどこを歩いてきたのかが見当が付かない状態となっていた。

 

「目的地はどこだ。 まだ見えないぞ…」

 

ここで足を滑らせ態勢を崩してしまうも転落するような事態ではなかったが、この時一瞬思考が止まったことで、明らかに自分が何かに「取り憑かれている」という客観的な分析が出来るようになった。

 

「着陸出来ない状態なら滑走路が見えていてもG/Aが原則、況や見えてないなら。一旦休憩しよう」

 

 20分ほど木に跨り休憩、今思えば目に入った獣道を進むことで目的地に最短で到着出来てほしいし到着出来るはずだという願望、いわゆる「正常性バイアス」に陥っていた。さらに同じような景色ばかりが続き、まっすぐな道でもないから歩いた距離感が分からなくなる、これが遭難未遂の原因である。富士の樹海まで行かなくても適度な疲労と整備されてない山林にGPS無しで歩き続ければ人間は簡単に遭難出来るのです。そして、たとえGPS機能を有する端末を持っていたとしても正常性バイアスに捕らわれた瞬間に、機械による正確な位置情報よりも自分の不正確な感覚を妄信するようになるということを忘れてはならないのです。ま、仕事でも日常生活でも同じですが、ね!

 

 山腹の木に跨り川の潺に耳を澄ましながらメビウスオプションレッドを咥え、パチっとカプセルを潰す。鼻腔を突き抜ける人口物質の刺激に安堵する。今、自分が人類の文化を感じることが出来る手段は煙草以外にはほぼ存在しない。畏怖と狭窄から己を理性の世界へ連れ戻し、スマホGPS機能を用いて現在位置と目的地の関係を測定する。

 

 なんと、尾根に到着した時の位置関係の問題で、より高い山頂まで向かっていたのである。これではどんなに左を見ていたとしても目的地のポイントは見えてはこない。GPSを見ればすぐにわかるはずのことに気づけなくなる、これが山中における、「疲労・孤独・正常性バイアス」の恐ろしいところなのである。結論は尾根の最南端へ向かえば良いとわかりGPSを頼りに進んでいくと第一の目的地が左に見えて来た。そう、確かに左を見るべきというのは正しかったが、進む向きが間違っていたのである。第一の目的地についての記載は省略する。数年経ったら加筆するかもしれませんがね。

 

・・・

 

 そこそこ堪能して第二の目的地へ向かう。ここでも進行方向を間違え滑落したが何とか生存。大変急な崖を下りてしまい、元の場所に戻るには5mくらいの土の坂を登らなければならず再び遭難しかけたが、今回は人工物という明確な目印があったことから冷静に元いた地点へ復航。よく見ると逆の方向に人工的な階段と石垣、緩やかな下り坂があるのを見つけたのでゆっくり下りていくと、ついに最後の目的地が見えて来た。同じく目的地についての記載は省略する。

 

・・・

 

 さて、目的のものは見終えたので後は帰還するのみであるが、本来では元来た道を引き返すようにして登山と下山を行うのが妥当である。しかしながら行きで体力を使い果たした中でもう一度登山を行うことや、再びあの吊り橋を渡ることは体力的に無理である(何らかんらストレートに言っても60分はかかる)。時間に関しては朝6時から開始していたから余裕はあるものの、体力が瞬間的には出せても60分持続させることはもはや無理なのは自分自身がよくわかっていた。今の場所に2時間立ち止まって体力を回復させることも一考の余地があったが、不覚にも水分や食料を滑落時に落としてしまったのである。そうすると最後の選択肢、

 

最 短 距 離 (5m 程 度) を 川 渡

 

しかない。もはや選択の余地はなかった。このままではいずれ空腹で動けなくなり川さえ渡れなくなる。目の前の川をどうしても渡る必要がある時どうするか、

 

・橋まで歩く(無理)

・誰かの助けを呼ぶか待つ(そんなことする資格ない)

・覚悟決めて思い切ってわたる

 

 再び一服して火を消し終えた時、覚悟は決まった。カメラとスマホを二重バックに仕舞い、リュックサックを背中に、右手に一脚の紐を縛り付けいざ川岸へ。川の幅は10mはあり水深は膝の上あたり、水流は比較的早め。なかなか絶望的であったが、コンクリートブロックが何個かあるので飛び移り渡る距離の短縮を図る。1個目、2個目のブロックには順調に飛び移れたが、3つ目のブロックに飛び移った時に足を滑らし膝を強打、出血はなく回復動作で何とか中州まで到着。

 

 小休憩をはさみつつ水面を眺めて様子を伺う姿はまさしく入水自〇の覚悟を決めている人間にしか見えなかったであろう。もし目撃者が現れたら通報されかねないので速やかに対岸へ移動しなければならない。手始めに右足を川に突っ込む。間違いなく一瞬でも気を抜いたら足元を掬われる流れの速さとともに水温の低さに伴う寒気を感じる。1歩、2歩、3歩と目的地の斜め逆方向に進んでいくが、やはり素人に川渡は出来るものではない。川の一定でない水底に足を取られ体制を崩し右手を川の底に付けたが最後、身体にあたる水流が増し体制の立て直しが出来ない。さらに体側面にも水流があたりもはや水流に抵抗するだけの体力が残ってない私はうつ伏せになり、支えを失った体は川下へと急速に流されていった。

 

「あぁやっぱりだめだったか。このまま流されて残された人に迷惑をかけるのか」

「案外自分の人生つまらなかったな」

「美しい風景を見たのが最後の瞬間か」

 

なぁんて走馬燈みたいなこと思うんだろうなぁって思うでしょ。実際に流されてみればわかりますが、

 

「このままSぬなんて絶対にごめんだ」

 

と感情爆裂すると同時に、

 

「衣服着ているから着衣水泳のように思うように体が動かないのは当然」

「下手に動かないで水面に顔だけ出して肺に水入らないようにゆっくり呼吸」

「眼鏡流された以上、スマホとカメラ水没してもどうでもいい」

 

極めて冷静に生存することのみを考え、とはいいつつリュックサックを可能な限り水被らないようにうつ伏せ気味になり、目的地に流されるように右手の一脚を水底にぶっ刺し再度バランスを取り直し渾身の力を振り絞って方向操作、対岸の洲が終わるか終わらないかのギリギリで体を洲へ乗り上げさせる。

 

 息絶え絶えになりつつも一脚を使い立ち上がり、今渡ってきた川と当初の目的地を眺める。その景色が美しかったのは単に雲の間から光が照っていたからだけではなかった。3分ほど物思いに更け乍ら元来た場所を見つつ、

 

「さようなら鬱くしきXXXXXXXXX、もう会うことはないでしょう」(BGM: Iwill撤収)

 

アドレナリンが放出されまくっているとはこの状態のことなのか、主人公補正バリバリかかったイケメン状態になった私は水に使った状態の足や衣服が水浸しの状態でも寒さを一切感じずに、ただただ生存するための闘争に対する勝利と美しき風景に心を蕩かしつつ、髪をオールバックに整え直しその場を去る。あの3分間見ていた光景は2度と忘れはしないだろう。

 

 上げて落としにかかるスタイルは現実でもよくあること、最後の最後にまた難所が出現。ほぼ90度の崖を再度上らなければ出発地点に戻れない。通常なら装備さえあれば上ることはそれほど困難ではないが、川で水流に流され溺死未遂で体力を大幅に奪われて、かつウェーダーの中に東北の冷水が入り込み、身にまとう衣にも冷水が染み込んで体を重くすると同時に徐々に体温を奪われている。筋肉には乳酸が満ちており既に筋肉痛を発症している。

 

「ここまで来て戻れないなんてあってたまるか。」

「生還してこそこの旅路に価値が出る」

 

通常生きている時ではありえないような生への活力と漲らせ、冷たさも疲労も一切感じない状態、脳内麻薬がこみ上げ必死に生き残ることだけを考え崖を登っていく。崖を上り終えて自分の愛車に戻って来られた時、絶対に元の生きていた世界に帰れることが分かった時、思わず膝から崩れ落ちた。

 

 何気なく車のドアを開けたが、よくよく考えると鍵を開けられるということは車の鍵を無くしていない事に気づいた。予備の服に着替え持ち物点検をする、リュックサックに水が浸入(後日点検するも一眼レフは無傷、スマホは多少の入水はあったものの分解清掃換装で復旧可能な程度の入水で済んだ)、メガネと作業着の胸ポケットに入れていた煙草2箱がD〇Nの川流れ状態になってしまったが、幸いにも同じく作業着のポケットに入れていた車の鍵と祖父からもらった護身用品および命を救ってくれた一脚も流されることなく手元にあった。車の鍵を無くしていたら例え川を渡り切ったとしても、着替えることが出来なくて衰弱死していたであろう。車に予備の眼鏡があったことも幸いした。旅の開始から約4時間、生還が確定したのである。

 

「どうやら、戻れとのことみたいだし帰宅するとしよう、その前に煙草吸いたい」

 

20分ほど車内で体を休め、着替えや装備関係を収納、本当に忘れ物がないかを確認して愛車のエンジンを掛ける。いつも聞きなれたエンジン音がこれほどまでに頼もしく、そして安堵をあたえるモノであったことはない。

 

「さぁ帰ろう、元のセカイに」

 

愛車とともに自宅へ、その途中でコンビニへ向かい、「紅茶花伝ロイヤルミルクティー」と「ロングピース」と「からあげ君タルタルソースあじ(2個)」を購入。どんな購入な料理よりも旨いと感じたし、死から生還した後の喫煙は最高の味であった。このあじを忘れることはないでしょう(あじ派はかしこいなぁ)。

 

 実は自宅に帰宅後も自分が本当に生きているのかが半信半疑であった。もしかしたら魂だけ帰宅しているのかもしれない、そう思うほど生の実感を失うほどの衝撃を受けていたのである。今は何ともないが眠っている時や起きている時も「ふっ」と斜面で足を踏み外し滑落する感覚や、全身に川の水流が当たる感覚が甦ってきて花京院の如く「あああうあああわ!!」と魘されていました。ついでに全身の筋肉痛が酷すぎて二日ほど身動き取れませんでした。ま完全に自業自得なんですが。

 

 まぁ酒を飲んで旨いものを食べて、いつもと変わらない休日を過ごし休息を取るうちに次第に生の実感を取り戻していきました。筋肉痛も消え次第に平穏な日常に戻ってくのを感じつつも、あの時、川を渡り切り脳裏を掠めた感覚も次第に薄れていくのも感じていた。恐らく今日の出来事も次第に風化してまた以前と変わらぬ当たり前の日常を過ごすようにはなると思うが、これを絶対に忘れたくはないと思い文章にした次第です。

 

 自分の行動のから来る自業自得とはいえ今回滑落・転落・遭難・溺死の危機から辛くも生き延びた私は、以下のことに気づいた。

 

・山と川を甘く見るな

・「正常性バイアス、サンクコストの呪縛、準備の甘さ」は人生を滅ぼす

・少なくともまだ死にたくはない

・これまでの生き方はすごく小さなことに気を張り人生つまんなくしている

・自分には思いのほか失うものを持っている

・平穏を生きることに退屈だと思うことは愚かである

・平穏を支える自分の周りの人々には「愛と感謝」を以て生きるべきであり、大切な人には大切にしているという意思を態度で示すべきである

・自分は案外強運で守られてるような気がする、そして細やかな気配りと大胆な行動力で対処すれば…けっこう幸せな人生を送れるような気がする。

 

そんなとこです。そして、最後の目的地へたどり着き大学生のころから探し求めていた風景を見た私は、(小説や映画でよく見かけるけど本当にそうなるのかと後日思いつつ)、持っていた一脚が手から滑り落ち、1分くらい私は魅せられ動けなくなった。

 

何を見たかって、それは直接お会いした時にお見せしますよ。

 

以上